人格、人権の否定では物事は解決しない、「誰が」ではなく「何が」だ [雑感]

この頃つくづく思うのだが、何で日本人は、何か問題が有ると「誰かのせい」にしたがるのだろう。
無論事の首謀者と言うものは存在して、その人の考え方、行いなどに何らかの問題があったから「事件」、「事故」などに繋がるのだが、だからと言って、その人そのものの「人格」まですべて否定されて良いものだろうか?。

何かが起きると必ず誰かが「責任」を取らされる、腹を切らされれて、それで「無かった事にしよう」と水に流せる、又は溜飲を下げられるのは構わないが、実はその人そのものにではなく、組織やシステムや社会的背景などに重大な欠陥があったとしても、その「真相」が浮かび上がってこない。

「再発防止に努めます」と口では言っておきながら、誰かのせいにして、実はまったく真相を追究しようとか、再発を防止しようとしていないと言うケースが、過去あまりにも多かったのではないだろうか。

その結果、再び同じ過ちを犯し、場合によっては多くの人命が奪われる事に、世の中の人は、この事にもう少し怒りを持って真剣に考えるべきなのではないだろうか。

別に僕は舶来主義や尊欧悔亜では無いのだが、航空先進国アメリカの例を持ち出すと、航空機の事故が起きた場合、パイロットがキチンと真相を証言すれば、その責任を問われないようになっている。
これは責任者のつるし上げに走ると、当事者が自己保身のため真相を語らず、正確な原因追求が出来ないので、そういう制度があるそうだ。
日本人には理解し難いが、アメリカの司法にある、証言をすれば罪が軽くなるという「司法取引」と言う制度も考え方は同じなのだろうか。

確かに、その人を攻めて、責任を取らせれば、被害者や世間は「感情的に」溜飲は下がるだろうが、結局原因が解明されなければ、航空機の場合、再び数百人単位の人命が奪われてしまう事に成るのだ。

これは「敵討ち」的な報復感情を満足させる事と、原因を追求して再発防止を図る事と、どちらの方が、公共の福祉に適っているのだろうか、社会的正義に近いのだろうか?。

あと更に気に入らないのが、何故日本も韓国などもだが、「いじめ」や「つるし上げ」など、良くもまあ一人の人間を根底から否定して苛め抜いて死にまで追いつめる事を平気が平気で行われるのだろうか。

どう考えても、一人の人間の「人権」が、きっちり尊重されていて、それを断固守ろうと言う傾向が見られないと感じるのは僕だけだろうか。

虐めの事を、集団で飼われているニワトリが、強い順から弱い方に突付いて虐めると言う「ニワトリの突付きの順列」という行動原理になぞられる事が多いのだが、東洋人の場合、意識の根底にある「自我」が、いまだに「集団」、「民族」、「地域」、「組織」という、多くの集団の一人であると言う意識が強く、「われ思う、故に我有り」ではないが個人としての「自分」という自我の発達が、西洋人に比べて遅い、弱いともいえるのではないだろうか。

断っておくが、これは「良し悪し」と言う単純な比較論ではない。
民主主義の先進国「フランス」など、リストラが気に入らない、許せない、自分に損害を与えたと言う、強い人権意識から、工場の労働者が社長を捕まえて幽閉してしまうなどと言う過激な事をしており、まあ、フランスなどでは労働者の権利意識が強いからとはいえ、日本人的には「やりすぎだよなぁ」とも思う。

余談だが、日本の労働組合、特に「連合」は、いい加減「労使談合」のぬるま湯から目を覚まして、フランス人労働者の爪の垢でも煎じて飲んで欲しいとは、個人的に密かに思ってはいる。

お国柄、風習などは、そう簡単に変わるものではなく、一元的な価値判断で優劣をつけるものでも無いのだが、
「麻生君がアホだから景気が悪い」的な、個人攻撃をしていたところで、実は何の解決にもなっているわけではなく、事の本質、問題を解決する為、「誰が悪い」から「何が悪い」と言う発想の転換を図って行かなければならない時期、時代になっているのだと僕は思っている。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。