ウェザーニュースを潰したい気象庁の思惑 [防災]

最近ネットで「ウェザーニュース」の情報を見る機会が多い。
今までの気象庁や気象協会の提供する予報より、わかりやすく、使えるサービスが多い。

そして、一番大きな違いは、ネット環境を利用して、「ユーザー」一人一人を「観測者」として利用していて、台風などでリアルな情報を見ることが出来る事だ。
地震に関しても、同じ手段で、協力者に震度計を配布して、独自の観測網を構築している。

だがこの動きがとことん気に入らない連中がいる。
親方日の丸の「気象庁」だ。

今回、台風の予想進路について、「気象庁と違う進路を出すべからず」と因縁をつけてきた。
何でも台風の進路は多くの人命にかかわるので、情報の混乱を避ける為に、出しては遺憾という趣旨らしい。

ほー、偉そうな事を言っているが、じゃぁ、過去に気象庁が予報を外した事により、被害が拡大して人命が失われたからと言って、一度たりとも気象庁や国が責任を取った事があるかい!。

以前、同社が、「「がけ崩れ予想」をサービスしようとしたとき、同じ趣旨で待ったをかけたが、もしこのサービルが実施されて、PCや携帯で簡単に情報を入手する事が出来れば、「救える命」があったんではないだろうか!。

どう贔屓目に聞いても、気象庁の主張は、利権を渡すまいと踏ん張っている醜い役人の戯言としか聞こえなず、本当に国民の財産と生命を守る為に骨身を削り命を欠けて奮闘しているとは思えない。

僕はこのブログで何度も主張しているが、気象庁こそすべてを国民の目にさらして、厳しい行政改革が必要であると確信している。

JRや郵政などと同じで、何でも「採算」が取れて「民営化」すればいいという趣旨ではないが、国家として、採算度外視で予算をかけるべき事業には税金の投入が必要だが、それとすべての情報と権利を占有させる事が本当に正しいとは思えないし別問題だ。

気象庁は、膨大な予算がかかる気象データーの観測業務(有人)に集中すべきではないだろうか。
それも、「見せ掛けの予算削減」の為に観測所や観測員を減らして、その裏で、高価な自動観測機器の納入で、特定業者との癒着で、高級官僚が甘い汁をすすっている等は、言語道断だ!。

気象庁の「ウェザーニュース」潰しは、実は、大ぼら吹いて多額の予算をつぎ込んだ(必要以上に高い機器を無駄に購入した)観測網より、はるかに低予算で、更にもっときめが細かく正確な観測が出来ると言う事が、国民に周知されるのを恐れているからではないかと思っている。

しかも既に多くの国民はその事に気づいており、天候が行政を左右する企業などは、予報自体が企業の命運を左右するので、民間の予報会社に長期予報を委託しているところが増えているそうだ。


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梅雨明け宣言を間違えた本当の理由は? [防災]

もう気象庁が「〇〇宣言」を、間違えたところで驚きはしない。

今年は例年にない早い時期の、短い梅雨で関東地方は「梅雨明け宣言」を出した。
ところが、TVなどの気象予報士などから疑問のコメントが出ていた。

まあインチキ素人お天気オタクの僕が見ても、梅雨の原因たる停滞前線、「梅雨前線」が消えていなかったからだ。
たまたま太平洋高気圧が強くなり、一時的に関東地方の前線が弱まったところで、気圧配置からして、再び強くなることは歴然で、なんで梅雨明け宣言を出したのか疑問だった

で、案の定関東地方は「梅雨が明けていない天気」になっているようだ。
梅雨明け宣言は、その週の週間予報を出す担当者が出すのだそうだけど、何でこんな間違いを起こしたのだろうか?。

しかし、今回の「お間抜け」に関しては、別の疑問を持つに至った。
それは「わざと、恣意的に梅雨明け宣言を出したのではないか?」という物だ。

当然これは何の物証も証言もある話ではない、「御伽噺」として聞いて欲しい。
本気で疑ってブログに堂々と掲載すれば、「名誉毀損」で訴えられてしまう。
特定の個人を非難しているわけではなく、あくまで「フィクション」としての話だ。

大体梅雨明け宣言をわざと間違えて、何の利益があるのかと考えるのがマトモな考え方だ。
だが今の世の中、天候により収益が左右される、それも莫大な金額が動く業種は多い。
たとえば「ビール」などは、梅雨明けが1日早まるとその夏の収益が数%上がるそうだ。
旅行業界なども天候に左右される。

そうなると、端役梅雨があけて、暑い夏になると市場が思い込むことによって、株式相場が大きく動くということになる。
もし、梅雨明け宣言を出す人間が、タイミングを見計らって関連銘柄を買っていたら?。
もしくはそういったたくらみをもった個人もしくは組織に「袖の下」を貰っていたとしたら?。

本当に「絶対無い」話なのだろうか?

僕は天気予報というものは、純粋に科学的な考証に基づいた結果を、「何のフィルターもかけずに純粋に」発表しているとは思っていない。
多分に、「社会的な影響」を考慮した、操作が加えられて発表されているのでは?と思っている。

具体的には、たとえば、週間予報などを観察していくと、週の初めの頃に、土日が完全に雨になる週間予報を出すケースはまれである。
悪くても「曇り」の予報を出すくせに、前日のお昼の天気予報辺りから「雨」に変わるという予報を数多く僕は確認している。
どう見ても雨になるような気圧配置なのに、何故晴れや曇りの予報を出すのか不思議だったが、良く考えてみると納得がいった。

もし、週の初めから「雨」の予報を出したら、あなたは屋外のイベントを中止したり、キャンセルしたりしませんか?。
となれば、その週末の旅行業界や、レジャー産業の収益が下がってしまう。
しかし、前日の、それもお昼過ぎに雨になるといわれても、交通機関や宿泊先を予約してしまった人は、予定を決行するしかない。
反対に日帰りのレジャーなど、お弁当を作る業者などは、前日に天気がわかれば、損害が少ない。

または、民間の収益に極端に影響が無いけど、その地域のイベントで、必要以上に人が集まって混雑することを阻止したい場合、前日夜まで雨の予報を出しておけば、かなりの人間がイベントに行くことをあきらめてくれるということもある。

まあそんな情報操作があるはずは無い「だろう」し、有っては絶対にいけないことだ。
だが僕は、気象庁という省庁に大きな疑問を持っている。
多くの省庁が、情報を閉ざし国民の目を欺いて、血税を食い物にして、組織の保全と、私利私欲に走っている。
気象庁だけが一人「清廉潔白」であると考える方が難しいといわざるを得ない。

こんな話を気象庁関係者が見れば、激怒するか、口の端を歪めてせせら笑うだけだろう。
だが、気象庁は、多くの国民が気象の専門知識に乏しく、悪く言えば「無知」なのをいいことに、「官僚の春」を謳歌しているのではないのか?。
そのあたりは国民の「軍事音痴」を食い物にしている防衛庁の背広組の高級官僚にも言える。
それらの批判に対して、胸を張って堂々とすべての情報を公開して、国民の審判を受ける度胸はあるのか?。

仮に民主党が政権をとる事に対して、霞ヶ浦は戦々恐々としているようだが、気象庁が一人蚊帳の外に置かれると思わないほうが懸命なのではないのかな。

今の民主党に官僚から国政を取り戻せるほどの能力も度胸もあるとは思っていないが、確実に「チェンジ」の流れが加速していくことは間違いなく、本当に国民のことを考えていない組織は、官僚は消えてもらうしかない。


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中国の高層ビル火災、ビルってあんなに燃えるの? [防災]

日本のTVで流れるニュースは、本当に当てにならない。
どうしても短い時間で多くの出来事を伝えなくてはならない為、「雑貨屋」的に成らざるを得ない事は分かるのだが、それにしても内容が薄い。
自分の職業や、興味のある、知識のある分野に関する報道など、「こんな程度の理解力かい!」とせせら笑ってしまう事が多い。

まあ小言でしかないが、つまらない芸能関係やスポーツ、グルメや旅の話題なんかに時間を割かないで、報道しなければならない事は山のようにあるんじゃないのかな?と思うのは僕だけなのかな。

さて、本題はこんなツマラン小言ではなく、先日発生した中国の高層ビルについてのある「疑問」の事なんだ。

現在流れている報道によると、その論点は、「不法に花火が打ち上げられた」か、「打ち上げし資金の捻出に不正があった」という2点に集中してると理解している。

だが、とことんヒネタ見方しか出来ない、意地悪中年オジサンが、報道の画面で燃え盛るビルの姿を見て思った事はまったく別で、「近代的な高層ビルが、こうも盛大に燃えるものなのだろうか?」ということだ。

日本でも過去に千日デパート火災や、太陽デパート火災、ホテルニュージャパン火災などで、多くの犠牲者を出している事はご存知の事だが、あんな凄惨な火災であっも、ああもビル全体が火柱になるように燃え盛っていただろうか?。

日本は凄惨な火災があるたびに、多くの犠牲者が出るたびに、消防法が強化され、消火設備や不燃難燃建設の基準が厳しくなっていた。
それがチャント守られている建物なら、あんな大火災にはならないはずだ。

まあ現実的には目先の儲けを優先させて人命を顧みない経営をした結果として、秋葉原の雑居ビルの火災や、最近では個室ビデオ店での火災(放火)で大勢の犠牲者が出ている。

そう考えてみると、もしかしてあのCCVT(中国中央TV)の新社屋のビルは、どの程度の防火対策が施されていたのか、あの燃え方を見ると大変疑わしいと考える事は出来ないだろうか?

そして、中国におけるほかの構造物も、もしかしたら同程度の防火対策しかしていない建物が「珍しい存在」ではない可能性があると考えるのが自然ではないだろうか。

昨年の四川大地震でも、耐震性の不備、もしくはあまりに多い不法建築が、被害を悲劇的にまで拡大させた事は記憶に新しいが、「火災」に関して同じであれば、安心して中国で施設に入る事が出来ないという事に成る。

先のニュース批判は、こういった観点で論じられる事がまったく無かった事に由来している。
まったく気が付いていないのか、気が付いてはいるが「何か」に遠慮して報道を自粛しているのか、報道しようとしてこれまた「何か」の検閲を受けて報道できなかったのか、その「真実」を我々は知る事は出来ないだろう。

だが、もし我々日本国民が中国で被害に有あい。多くの人命が失われてからでは遅いのではないのだろうか?。
僕は悪戯に中国政府や国家そのものに対して批判せよといっているわけではない、だが「間違っている事は間違っている」とキチンと報道する事が民主主義におけるマスコミの「使命」ではないかと思っている。

報道のレベルはその国家の民主主義のレベルを示す物であり、日本のマスコミのレベルは他の先進国家に比べて大きく劣っているといわざるを得ない。
そんなマスコミに何の批判もせず、喜んでワイドショーネタに群がっているようでは、国民そのものの「人間」としてのレベルが問われかねないとはいえないだろうか。

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防災上雨戸が無い家は危険!、見栄えがナンボのもんじゃい! [防災]

防災シリーズは関心が薄いのかヒット数が少ないが、かまわず続ける!
最近の家を見ると、それが「随分オシャレでかっこよく建てたネェ」と言う家ほど「雨戸」が無い。
そういった建て主に聞いてみたが「何で雨戸が必要なの?」と不思議そうな顔をされた。
僕にしてみれば、住宅の雨戸の必要性を理解しない人間の方がよっぽど不思議なのだが、しかたがないのかな?。
大体、日本の古来からの家屋に、何故「雨戸」があったのか良く考えて欲しい。
まあ、ガラス窓や、まして今のように性能の良い「アルミサッシ」なぞ無かった時代、所詮「紙」で出来た襖や障子に耐侯性が防犯性が有るはずも無く、木で出来た頑丈な雨戸を必要としていた。
なら、現代の高性能の住宅に雨戸は入らないのか?
そんなことは無い。
いかな優秀なサッシであっても、台風の強風による飛来物から守るだけの強度は無い。
最近流行の「ゲリラ豪雨」など強烈な竜巻やダウンバースト、雹などを伴うこともあり、ピンポン玉ほどの雹が、竜巻のパワーで横からぶつかれば、結果は自ずと判るだろう。
防犯の面でも、雨戸の有る無しは大きい。
結局外されてしまうかもしれないが、その手間と時間がかかるリスクを犯罪者が恐れてくれるのなら、十分防犯効果が高い。
そういった意味で、シャッターも含めて雨戸を自宅につけないというのが僕には理解出来ない。
値段が高いからとか、ましてや「かっこ悪いから」と言う話は言語道断で、見栄を張ってつまらない飾り出窓を100万近くかけてこれ見よがしに付けるのなら、その金で、雨戸と面格子、網入りガラスを入れるべきだ。
最近の「女尊男卑」の世相からか、住宅建築のイニシアチブを握っているのは、何故か一銭も払わない奥様であることが多く、どいつもこいつもお嬢様で、自分が「お姫様」であると勘違いしているのか、生活のプラットホームである自宅を、デズニーランドの城と勘違いして、まあそれは見栄えに拘り、生活感の無い「絢爛豪華」な家にするケースが多い。
その生活感のない、まるで絵本から飛び出したような家は、そこのお姫様の「虚栄心」を満足させる事は出来るかもしれないが、災害に襲われて、肝心なときに「生命と財産」を守ってくれるとは限らないぞ!。
世の男性諸氏に言いたい!
お姫様のご機嫌を取って、使い物にならない「お城」のために、小遣いも貰えず、お昼に冷たい握り飯を頬張り、渋茶を啜り、莫大なローンを払う為に生きて働いているわけではあるまい。
家を建てるときには、「生活の基盤である」という基本を忘れずに、奥様とけんかになっても、場合によっては離婚騒動がおきようが、「正論」として、自宅の「防災・防犯」のために、雨戸の装着を主張すべきだろう。
それが本当の「一家の大黒柱」としての責務ではないか。
奥さんや子供のご機嫌をとるだけが「オトウサン」の仕事ではないはずではないのか。
と、この話を本気にして、家庭争議が勃発しても、僕は責任はもてません(笑)。
ホント、無責任だなぁ。

大自然、川は溢れ山は崩れる!貴方の家は大丈夫? [防災]

今回の一連の豪雨で、浸水したり、がけ崩れで自宅に被害を受けた人達はお気の毒としか言いようが無い。
まして、高いローンなどを組んで築き上げた財産が「台無し」になってしまってはかける言葉が無い。
ただ、「夢のマイホーム」を持つのはいいのだが、今買おうとしている場所、まさに建て始めた場所が、自然災害に対しての「リスク」が低いか否か、と言う事に対して、多くの人が若干無頓着であるように思える。
例えば、近隣に河川があって、さほど高いわけではない場所などは、その場所が過去に水害の被害が有ったか否かを良く調べたり、考慮したりする必要があるだろう。
かつて、「治水」と言う、水害を防ぐ土木技術の無かった時代には、水害が起きる、つまり水が溢れる場所には居住区を作らなかった。
名古屋水害のとき、上空から被害の様子を撮影したら、水が来なかった場所は、古くからの街道町が、まるで古地図のように浮かび上がったと言う話は有名だ。
そもそも「田んぼ」の跡地などは問題外で、水が溜まり易いから水田にしていたくらいで、水防の能力を超えるような降雨があれば、そこが水に沈むのは自然の道理だ。
また、山であった場所を「造成」して作られた住宅地など、がけ崩れのリスクが有るのが当然と考えておいた方がよい。
岩盤のしっかりした緩やかな傾斜地ならともかく、多くの造成地は、火山灰などが堆積した、「土くれ」を削ってひな壇にしたような場所がほとんどで、所詮「土」である以上、雨が染み込めば、地盤が緩んで崩れ出すのが、これまた自然の道理ではないかと思う。
そう考えると、「災害に強い安全な宅地」と言うのは、結構限定された場所にしかない事が、お分かりいただけるだろうか?
このブログで何度も書いているが、2~3世代前くらいの時期は、比較的自然災害が穏やかだったらしく、「何十年も住んでいるけど、こんな災害は無かった」と言う話に成る。
まして、戦後、と言うより高度経済成長以後に「主に経済的理由」で開発された地域や建物は、そういった「激甚災害」を、まったく考慮に入れていない場合が多い。
その結果が、「ある日突然我が家が水に沈み、土砂に流される」と言う事になってはいないだろうか。
物事には必ず「リスク」が伴う。
最近の日本人はどうもこの「リスクマネージメント」があまり得意ではないようだ。
それはあまりに「平和」な時期が長すぎたからなのだろうか?。
僕の近所には、一級河川があり、かつては必ず毎年水が溢れて大きな被害を出していた。
その河川の近隣の古い農家など、庭先の納屋の梁の上に、昔の「和船」が必ずのせてあった。それは毎年必ず起きる水害への備えであり、立派な「リスクマネージメント」だと思う。かつてはそういった知恵を持って実践していたのだ。
今後自然災害の「リスク」は増大する事は間違いない。
我々はそのリスクを覚悟した上で、知恵を尽くして生活の安全を確保していかなければならないのではないだろうか。

天気予報は天気図を出して解説せよ! [防災]

今回の愛知や北関東の豪雨は、基礎的な気象補知識があれば、簡単に予測できたはずだ。
僕自身別に「気象予報士」の資格も無いし、専門に勉強した事も無いが、子供の頃から天気予報を「何気なく」見ていただけで、自然と「天気図」の見方は身に付いていた。
だから、今回の豪雨も、日本周辺の天気図を見て、いの一番に「栃木県那須水害や、名古屋豪雨水害のときに似ている」と直感した。
そして結果はその通りになっている。
最近のTVの天気予報は、身せる為の「ショウ」の部分には力を注いでいるし、カワイイねぇチャンもいっぱい出てくるが(それが悪いとは言わんがネ)、肝心の天気のしっかりとした解説をしない、いや出来ないのだろうか。
よって「晴れか雨か」と言う大変大雑把な「結果」だけしか分からないと言う事が多い。
だが物事には因果関係が必ず有るのであって、天気予報も、気象庁の立派な建物の中で、お高い高性能PCが出した「ご神託」を、能天気に垂れ流しているわけではないだろう。
天気予報の基本はて「天気図」の「気圧配置」であるのだから、「何故こうなる」と言う部分をちゃんと解説して欲しい。
そしてそれを見れば、これから自分のいる場所が、どの様になるのかということに対して「真っ当な想像力と、基本的な知識」さえあれば、気が付く物ではないのだろうか。
もっとも多くの人は、と言うより最近の日本人は著しく「科学離れ」が進んでいるので気象に対して興味が無いのかもしれない。
それよりも、国民の多くが「農民」であったり、インフラが発達していない頃は、日常生活に与える気象の影響は多大であり、否応無く気象に関心を「持ちざるを得ない」状態であったが、生活環境の防災が整い、立派な家で春夏秋冬快適に生活できるようになってからは、その状態が「当たり前」となってしまい、気象に関する関心が失われていったのかもしれない。
まあそういう人達は別にそれで困りはしていないのだろうが、「しまった」と、気が付いたときには、この世とオサラバという事に成ってしまったら、悔やんでも悔やみきれないと言う事にならないだろうかネェ。

明日、身近に起こる災害の死の恐怖、自分の身は自分で守れ! [防災]

栃木県鹿沼市で、大雨で冠水したガードしたに自動車が水没し、犠牲者が出てしまった。
しかも周りも通報し、本人も助けを求めていたにもかかわらづ、その警察や消防に見殺しにされてしまった事は、なんとも許し難い!。
関係者は「単純ミス」を連発して責任逃れに終始しているが、本当に連絡の行き違いだけだったのか疑わしい。
あの連中なら通報を受けていても、「まあ大丈夫だろう」と高をくくって、「恣意的に」救助に向かわなかった可能性が高い。
それは我々の安全を守るはずの彼らが、あまりに自然災害に対しての想像力がなさ過ぎるからだ。
これは残念ながら「栃木県」というど田舎の、あまり優秀ではない地方の警察や消防であったからとも言える。
栃木県民には失礼ながら、この県は、結構凶悪事件が起きても検挙出来ないで「未解決」にしてしまう事例を良く見かける。
そういえば警察官の息子がリンチ殺人を起こしたなんて話も有ったな。
また、軽犯罪も多く治安もよろしくないなど、警察力が著しく低い地域に見受けられる。
その上これは栃木県人の友人に聞いたのだが、「他県に比べて比較的大きな災害に見舞われなかった時期が続き、自分達は天災の被害を受けないと言う根拠の無い自信を持っている」そうだ。
そういえば、かつて国会移転の話があり、TVのニュースで栃木県の誘致に熱心な議員が「栃木県は災害が少ないので危機管理上、国会機能を移転するのに最適です」と言うインタビューを聞いたが、その議員の後ろにそびえらっている「那須岳」は活火山で、何時爆発するのか分からない山なのに、そんなところに自分の欲と野望のために国会を誘致しようとは、なんとも破廉恥なやつだなぁ、と心のそこからあきれ返ったことがあるが、他の県民も、特に行政の連中は皆そうなのだろうか?。
だがこの話を、栃木県だけの物と考えてはいけないのではないだろうか。
今起きている、これから起きようとしている自然災害は、今生きている世代が経験したことの無い規模と速度で発生する可能性が高い。
オマケに、都市構造は、そういった災害をほとんど考慮されずに作られてしまい、行政、一般市民の防災意識もけして高くなく、別に危険な場所に行かなくとも、日常生活圏で、未曾有の災害に有ってしまう事が「当たり前」のように起きてしまう。
そんな時、「まったく警察や消防は何をやっているんだ」と、のんびり怒っている暇は無く、個人の判断と意思で、迅速に避難して自分や家族の安全を派からければならないのではないだろうか。
そして的確な判断を迅速に行う為には気象や防災の正しい知識や、日常の「心構え」は絶対に必要になる。
いざとなれば他人を当てにする事は出来ない、
そのためにも是非「現実的な防災意識」を向上させて、災害から身を守って欲しい。

今年は本当に「夏」が来たのか? [防災]

確かに「暑い」日は多かった。うだるように暑かった事は確かだ。
だが、空を眺めていると、「夏の日差し」がまぶしい、入道雲が凛々しいいつもの夏の空は皆無だったと思っている。
なんだか毎日「霞んでいて」ハッキリしない。
しかも所かまわず気象庁曰く「ゲリラ豪雨」と言うセンスの無いネーミングの、そう「スコール」が降り注いでいた!。
これが日本の夏だったのだろうか?。
8月頭からの気象庁の予報は傑作であり滑稽だった。
「あと3日もたてば、夏の高気圧の勢力が強くなり、夏らしい日が来ますよ」と言い続けていながら、前日になると、現実の気圧配置から、必ず乱れた天候に予報が差し変わると言う陳腐な予報に終始していた。
本当に、精密な観測の結果、科学的根拠に基づいた考察を加えて、夏の高気圧の勢力を予想していたのだろうか?。
で、TVの気象予報士に、「今年の高気圧は何故か勢力が弱く云々」と言い訳をさせているようではお話にならない。
しかも、まあ暦の上では、季節は「秋」なのは間違いないが、誰が見ても「秋雨前線」が南下して、本当に秋になってしまっている。
実は、今年の日本の「梅雨」は、明けたわけではなく、「暑い梅雨」が続いていて、そのまま、「秋の長雨」に突入してしまっているのではないだろうか。
そういった意味では、日本古来で言う「夏」は来なかったのではないだろうか?。
先の「スコール」ではないが、日本の気候も「亜熱帯」になっていて、「雨季」と「乾季」に分けられて、「春夏秋冬」という区分がなくなってきたのかもしれない。
であれば、過去の事例や「例年」と言う物に頼りすぎている気象庁の予報が当たらなくとも不思議ではない。
しかも、間違ったデーターと予測を入れたコンピューターに頼っていたのでは尚更だ。
気象庁さん。快適な建物の中に踏ん反りかえって、能書きを垂れていないで、屋外に出て、人間の感性と技術できっちり観測した結果で、「生きた気象予報」を出してみるべきじゃないのかな?。

梅雨明け宣言後の関東地方は、「梅雨末期」の天候の不思議? [防災]

先週からの天気の様子を見ていると、僕に言わせれば「梅雨前線」が、東北地方から関東、上信越、北麓地方にかかっていて、雷雨や突風を含む大雨を各地に降らせている。
気象学を専門に学んだ事は無い、御馬鹿な中年おじさんの、稚拙な記憶に頼ると、たしかこういった天候状態を「梅雨の末期」と呼んでいたような気がするのだけれど、たしか気象庁はこれらの地域の「梅雨明け宣言」を出したんじゃないのかなぁ?。
まあ、気分がコロコロ変わりやすい人を「お天気屋さん」と呼んでいるように、相手が自然現象の「天気」なのだから、たかが数百年程度の稚拙な知識と、未熟な現代文明の産物たる「現代気象学」を頼りに、これまた目の粗い「ザル」で掬ったデータを下に、「卓上」で電子計算機頼みで予報を「でっいあげて」いれば、間違えても当然のことで、関係者を無下に批判する事は出来ないだろう。
でも、今の気象庁のやり方を見ていると、あまりに「自動計測器」と「コンピューター」の頼りすぎてはいないだろうか?。
話は変わるが、先の「岩手県北部地震」において、無人の自動観測機が「震度を「6度強」と発信したものをそのまま鵜呑みにして発表したが、実際の被害や「体感」では「そんなに強いの?」と成ってしまったが、速報としての第一報は自動観測の物でよかったにせよ、そこに「人間が自ら観測して感じた結果」で修正した震度を載せるべきではなかったろうか?。
今の日本の気象行政は、あまりに「機械偏重」過ぎはしまいか?。
各地の気象台や観測所の人員を削減及び廃止して、観測を機械に入れ替えれ入ると言う話を良く聞く。
確かに自動観測機を数多く配置した方が、データの密度は高くなり、予報制度が上がる事は間違いない。
だが機械は人間が命令したこと「しか」観測出来ない。
正しい知識と技術を持った人間が、長期間にわたって「定点観測」する事でしか分からない「いつもと違う何かの現象」を察知出来ないということをキチンと認識するべきではないだろうか?。
だが、この話に限った事ではないのだが、予算や経費の削減に辺り、真っ先に槍玉に挙げられるのは「人件費」であり、現場の第一線で、貴重な技術や経験を持ったベテランが、ロクに仕事もしないで、己の出世の為だけに生きてきた破廉恥な役職者達によって省かれてしまっていると言う実態をよく見聞している。
その代わりに人件費の安い「日雇い派遣労働者」や機械を入れればそれで十分で、収益をあげたり、予算を削減できれば、そのアホな役員の「成績」になり、メデタシメデタシと成るのだから、そりゃぁ日本全体でレベルが下がっていくのは当然ではないかと思う。
おっと、例によって話が脱線したが、「天気」に関しては、とにかく今の気象庁はあてにしていては、命が幾つあっても足らないなんて状況になってしまうかもしれない。
それは「血の通わない」仕事を彼らがしているからで、気象庁のお偉方を、冷暖房の効いている、頑丈で「安全」な庁舎から引きずり出して、雨風に晒されて、火山や地震に怯えながら、「汗」をかいて、その現場に住む国民の立場に立って、「生きた」予報業務をしてもらおうではないか!。

浜岡原発は、日本に止めを刺すのか [防災]


東南海地震が起きた場合の被害というものは、考えるだけで恐ろしい物がある。

子供の頃に習った、日本の工業の中心を成す、太平洋ベルト地域が完全に壊滅する恐れがあるからだ。

それは地震の被害に加えて、スーパー津波の発生も指摘されており、海岸地域が壊滅的な被害を受ける恐れが非常に多い。

そして、東海地震の震源域とされる、しかも海岸沿いに建てられているのが問題の「浜岡原子力発電所」だ。

静岡地裁は、地震による被害の可能性が大きいとして地元住民が起こした運転差し止めの訴えを、まあ良くも見事にすべて退けた。

この判事団と裁判長の勇気には、心から敬意を示したい。もちろん強烈な皮肉だが。

ある意味、余計な雑音を除いて、「真っ当に普通に」考えると、東海地震が発生した場合、浜岡原発が「絶対に安心」と言い切る方が、非常に困難なことだ。

今回棄却の理由になったこととして、まず、原発の耐震基準が適正である事と、中部電力の安全管理が適切であると言う事が述べられていたが、どう好意的に考えてもそういう結論は出ない。

まず、耐震基準であるが、これは、先に起きた「中越沖地震」で柏崎原発が受けた地震のダメージは、想定されていた耐震強度の2.5倍のダメージを受けていた事から、到底「安全」であると言える代物ではない。

工学的に言えば、強度は2倍~3倍増しに設計すれば安全であるはずだが、浜岡原発の設計が本当にそうなのか疑問だ。

また仮にきちんと設計されていても、施工自体に「ごまかし」があれば、所定の郷土が出ていない可能性があり、浜岡原発はそういう疑惑も囁かれている。

あと、25年も前に作られた(以前は25年が寿命といわれてきたはずだが?)浜岡原発は、経年変化に対してきちんとしたメンテナンスが行われていれば安全であると言うが、原子炉の本体である金属のブランケットは、長年の中性子被爆を受けているはずで、目に見えない無数の「欠損」があるはずで、当然機械的強度は落ちているはずだ。

また中部電力は志賀原発で、制御棒脱落による臨界事故という、一歩間違えればあの「チェルノブイリ」の事故に匹敵する、原発事故としては最も危険な事故を起こしている会社でもあることから、到底この会社の安全管理が適切であると言う判断を下す理由がわからない。

日本の原子力行政は、「まず絶対原発を作って発電し続ける」と「プルトニウムを貯蔵して潜在的な核兵器開発国というレッテル」を持ち続けると言う事が大前提になっており、そこに如何なる危険性が潜んでいても、「無かった事」にして、「絶対に安全です」と国民をだまし続けてきた。

しかし「絶対に安全」な物などこの世の中に存在せず、であるにもかかわらづ「絶対に安全で絶対事故はありません」と原発の稼動を続けてきた経緯がある。

今回の判決で、「早急な運転差し止めは社会的影響が大きく困難ではあるが、危険性があることは事実で、出来うる限り速やかに稼動停止に向けての努力を行うべきだ」と言うものが出れば僕自身は納得がいった(地元住民は到底受け入れ難いが)が、「何も問題がありません」と言われてしまっては、「これは絶対に危ないことを認めたが、ここで運転差し止めの判決を出すと、日本中の原発をすべて止めなくてはならず、政治的判断か、圧力でこの判決を出したな」と思いざるを得ない。

政治とは、その実態は民主主義国家であっても、その運営に民意が届く事は困難で、「トップダウン」の形で、「お上の都合」を押し付ける「現実」を選択する物である。

いつ本当におきるかもしれない地震が理由で日本全国の原発を止める「リスク」よりも、「何か起きて被害が出た場合、しらばっくれて、関係者の(トカゲの尻尾きり)で済ます」という選択をする。

また、政治家や官僚だけではなく、差し迫って危険に晒されている地元住民以外の国民は、自分がどれだけの損害を受けてしまうのかと言う「想像」が付かない人の方が圧倒的で、自分やその家族が命を落としたり、日本の経済に壊滅的なダメージを与え、それが最悪食料などの「生活必需品」やエネルギーさえ事欠いてしまうと言う想定で恐れおののいている人もほとんどいないだろう。

この問題は、いち静岡の災害の問題ではなく、日本の将来の命運が掛かっている問題であり、「他人事」で済まされる問題ではない。

一人でも多くの人が疑問を持ち、声を上げて行って欲しい。

「その日」が来てから後悔しないためにも。


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