大きい車は使い難い! [車]

僕はこのブログで、最近の日本車が、不当に大きすぎると何度も非難してきた。
これは、正義感ぶったエコ指向に便乗しているからではなく、「本当に使いにくい」からだ。

かつて、国産車は5ナンバーサイズの呪縛で、明らかにバランスのよくない、そうヒョロッと伸びた棒のようなデザインの車が多く、欧米車(特にアメ車)のように、おおらかでふくよかなデザインの車の方が、カッコよく見えたことは確かだ。

だが、周囲が広大な原野や砂漠の中で使うのであれば、全幅が2mに迫ろうとも困りはしないが、日本の道路事情や駐車場などを日常的に使うのであれば、幅はせいぜい1750mmまでが限界であると実感している。

何年か前に全幅1760mmの車に乗っていたが、国道や高速道路を走る分にはいいのだが、市街地の路地や、田舎道などを通過したり、スーパーマーケットやショッピングセンターの駐車場を使うときなど、必要以上に幅を気にしなければならないことがなんとしても煩わしく、それ以後は5ナンバーサイズの車しか買わないことにしている。

以前も書いたが、トヨタがクラウンにはじめての3ナンバーサイズを設定するとき、日本中の道路や使い勝手を検証して、日本では1745mmまでが、使用上問題の無い限界のサイズであると結論付けた。
それは本当に正しい判断だったはずだが、マーケットはそれよりもはるかに大きい「シーマ」を熱狂的に受け入れてしまったので、以後その話がトヨタから出てくることはなくなってしまった。

まあ、僕的に百歩譲って、そういう大きなサイズの車が存在し。マーケットがあるのなら全面的に否定しないしが、俗に言う「大衆車クラス」まで、必要以上に大きくするのは疑問だ。

これはヨーロッパ、特にドイツ車に顕著で、世界の大衆車の代表たるVWの「ゴルフ」でさえ全幅が1790mmもあるというのはどうしても納得できない。
いくらドイツだからというって、常にアウトバーンを全開で疾走するわけではあるまい。

欧州全体で見れば、いまだ中世の町並みがそのまま残っているところも多いはずで、南欧などの山間地などもけして道が広いようには思えない。

BMWも2002や初期の3シリーズは5ナンバーサイズだったし、ベンツの190シリーズも、日本のマーケットを主眼において5ナンバーサイズに収めたのではなかったはずだ。

まあ、欧州の自動車メーカーも、アメリカ市場への輸出を主眼に置いたからだとも考えられるが、事ドイツに至っては、内燃機関のエンジンを搭載した自動車の最後を迎えるにあたっての、ヒステリックなパフォーマンスの向上の行き着く果ての産物の巨大化と見えなくも無い。

これは、巨大化の行き着く果てに、原因不明の環境の変化についていけず絶滅した「恐竜」に重なって見えてしまう。

ドイツということになると、ナチスドイツが、戦況の劣勢を挽回しようと、主力戦車を巨大化させていき、果ては188tもある非常識までな巨大戦車「マウス」を作り出したが実戦に間に合わず、ナチスそのものが崩壊していった故事にも準えるかもしれない。

当のドイツもそれらのことに気がついてか、サイズの縮小の傾向にある。
これらは「燃費」を稼ぐ為のスモール化が主眼であろうが。

日本ものメーカーもそろそろ目を覚ましてもらい、全部5ナンバーに戻せとは言わないが、せめて「理性的な」サイズまで縮小して欲しいと思っている。

最も世間の「より豪華に快適で、速く」という、もはや無意味な上昇志向が改まらない限り、なかなかうまくはいかないのかもしれない。

nice!(1)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

迫り来る、本当に核兵器が使われる「恐怖」! [雑感]

アメリカのオバマ政権は「核兵器の無い世界」をスローガンに、ロシアとの戦略核弾頭の数の削減を合意し、今度のサミットでも、「核兵器の非道」を強く訴えていた。

日本の反核団体などは、これらの動きを「核の無い世の中」への一歩だと喜んで評価している向きもあるようだが、残念ながら事態はまったく逆の方向、つまり、核兵器が使用される現実に向かって歯車が回り始めているといえる。

そもそも、第二次世界大戦後、日本以外に核兵器が実践使用されなかった理由は、国家間、当時は東西冷戦の真っ只中であり、如何なる理由があろうと、核兵器の使用は、相手方からの報復としての核攻撃を受けることなり、米ソが「オーバーキル」という、全世界の人口を何度も壊滅させられるだけの核弾頭を保有してからは、核兵器の使用=世界の滅亡に繋がるたという「相互確実破壊」という現実から、絶対に使われることは無かった。

ところが、冷戦終結、ソ連崩壊とともに、ソ連軍の核兵器開発技術や、核弾頭そのものが第三国、まずい事にイスラム圏の国家に流出してしまったときから、相互確実破壊の恐怖による、核兵器使用の抑止力が事実上消滅してしまったのだ。

核兵器の攻撃を受けて、その相手が判っていて、これが国家であれば、その国家に報復すればイイだけなのでだが、「何処の誰か判らない」、そうテロリストや犯罪組織などの非政府組織によって使用された場合、報復の術が無く、報復を恐れて使用をためらう理由が存在しなくなる。

つまり、北朝鮮やイラクが核兵器を直接使用するのが怖いのではなく、その核兵器が流失してテロリストに使用される方が、はるかに恐ろしいのだ。
そうなれば、巨額の国家予算を投じて、戦略核兵器を維持すること自体にほとんど意味が無くなる。

だからこその核軍縮で、予算を大幅に減らすのが目的とも取れるが、アメリカが本気で核軍縮に取り組もうとしているのかは疑ってみる必要はあるはずだ。

たとえばアメリカなら、大西洋と太平洋にオハイオ級戦略ミサイル潜水艦を常時1席ずつパトロールさせておけば、世界中に対して十分恫喝出来る。

1隻のオハイオ級に24発の戦略ミサイルが搭載され、ミサイル1本辺り、8個(本当はもっと多く装備できる)の個別の目標に向けて投射出来る、広島に落とされた原爆の10~20倍の威力の核弾頭が仕込まれているので、合計192発ある。

どんな国でも、その国家の192箇所の都市に対して核攻撃を受けると考えれば、アメリカに面と向かってはむかう国は無いはずである。

つまり、2隻プラス予備の2隻で、4隻あれば常時世界中の攻撃が可能であり、768発の核弾頭さえあれば十分なのだから、オバマ大統領が1500発に削減するといっても、それでも必要数の倍以上の保有を続けると宣言しているに等しいのだ。
これでは本当に核兵器の無い世の中を目指しているのかは大変疑わしいとしかいえない。

むしろ、核兵器の「非道」を訴え始めて、しきりに「核テロ」の恐怖を喧伝しているということは、既にアメリカが核テロを受ける事態を具体的に察知していて、使用者に対して「人類の敵」というレッテルを貼るための予防線、筋書きではないのかとも疑ってしまう。

その結果、「正体不明の核テロリスト」、おそらくアルカイダ等のイスラム原理主義系のテロ集団が声明を出す、もしくは「濡れ衣」をきさせることが出来れば、「人類の敵」に対して、堂々と核兵器の使用が出来るという事なのではないだろうか?。

無論これらのかなりヒネタ「戯言」に、何の確実な証拠の裏づけがあるわけではない。
だが、表向きのマスコミや政府の話を、鵜呑みにするほど、僕は善人ではない。

また、これらの話がアメリカ本土や中東を舞台にした話で、少なくとも日本の、自分の周りには絶対に起きないと、何の根拠も無い楽観論で思考を停止させるほど愚かでもない。

かといって、自分だけ助かろうと自宅の地下に「核シェルター」を作り、1か月分の食料とヨウ素剤を備蓄しようなどと考えるほど、自分勝手でもオッチョコチョイでもない。

要するに、冷静に判断して現実を直視しましょうということだと思う。
何か事が起これば、とても一個人や国家の判断や意思が通じる物ではない。
だが、間違った情報や判断で、右往左往して「馬鹿を見る」事の無いようにはしたいと思っている。

とにかく「眉唾」の核軍縮に浮かされないで、何時自分の身の周りに起きるか判らない「核兵器使用」の現実が、戦後最も現実味を帯びてきているという事は認識して欲しい。






nice!(1)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

興味がわかない?新型レガシィ [車]

新型レガシィが出てから、結構経ったが、一向にブログに感想を書く気には成れなかったし、今も積極的に評価しようという気はあまり無いというのが正直なところだ。

まあ、自動車という物に対する興味や情熱が、以前ほど無いのだからともいえるが、新型のZなどは、ストレートに「カッコいい」し、ホント、お金に余裕が出来たら素直に欲しいと思う気持ちは、少年の頃にS30のZを見たときとあまり変わっていない。

つまり、それだけレガシィという車に僕個人としては魅力が無いということになる。

まず、その「見てくれ」、つまりエクステリアデザインだが、「スバルらしさ」云々をさも偉そうに述べるつもりは無いが、パットみて正直まったく魅力が無い
この車は何処の国の、何処のメーカーなのか良く判らない、「どこかで見たような」ディテールが、それなりにちりばめられてはいるのだが、手放しで「美しい」とも「カッコいい」とも「力強い」とも、デザインから我々ユーザーに語りかけてくる物が、まったく感じられないからなのかもしれない
かつてのレガシィ、いやスバルのデザインに見られるように明らかに「こりゃぁ変なデザインだな」という、滑稽ともいえる珍妙なディテールは姿をけしているのだが、可といって特に訴えかけるところも無い。
しいて言えば、やはりイメージが「トヨタ的」になってしまったのは意識的なのか、偶然の産物なのか?。

万人にそつなく受ける可能性はあるが、このデザインをして「オンリーワン」では選んではくれないだろう
そういった意味でもトヨタ的なのかもしれない。

二つ目はそのパッケージングで、これは商売上仕方が無いことなのかもしれないが、企画された当時は、金満バブルのアメリカ人のために、アメリカのマーケットを中心に企画されていたはずなので、そのサイズが、アメリカン的に肥大化してしまった

まあ、他のミドルサイズで、世界中のマーケットを持っている車は、内外問わず軒並み巨大化してしまったので、レガシィだけを非難するのはお門違いだとは思うけれども、少なくとも国内で自分が乗るのには、まったくもって「不適格」な大きさだとしか言いようが無い

大体、どのメーカーもサイズの巨大化を、ユーザーの居住性の要求にこたえる為だと、判を押したように答えるが、これはユーザーをとことんコケにしたペテンに過ぎない!。
実は、欧米人の体格の人間が、4人乗って荷物を搭載して、十分満足のいく車内寸法を得るのに、日本の5ナンバーサイズで不可能ではないのだ。
では何故巨大化、特に全幅が広がってしまうのだろう?。
その理由のひとつは「デザイン上の商品価値」で、結局他の車が軒並みおおらかに寸法を自由に使ってデザインされた車と比較すると、確かに幅の狭い車は、貧相に見えるのだ。

そして、これは、メディアなどでも語られていないが、「安く作れる」からだと思っている。
「何を馬鹿な、大きくなればそれだけ高くなるじゃないか」と反論する人もいるだろうが、どっこい、大きくすることで生産コストを下げることが出来る要素は結構多いのだ。

ひとつはエンジンで、5ナンバーの2000ccで、ライバルに負けない動力性能や現在であれば燃費をも達成しようとなると、どうしても複雑で、高度な加給技術を使わなくてはならなくなる。
そのための電子制御や、耐熱性や強度、軽量化を図る為の高価な材料など、非常にコストが掛かる。
それは先代レガシィい達の「シーケンシャルツインターボ」や「チタンタービン」、またはVWのツインチャージエンジンなどを見れば一目瞭然だ。

ところが、そんな複雑なことをしなくとも、「排気量」さえ上げてしまえば、比較的容易に安価に実現できてしまうのである。
同じ280PSのエンジンでも、2000CCの凝ったターボエンジンより、3500CCのV6エンジンの方がはるかにコストが安いのだ。

また、車体もある程度限られた寸法で捩れなどの剛性や、衝突安全性能の為の強度を出して、尚且つ軽量化を図ろうとすると、「ハイテン鋼」やアルミニウムなど、高額な材料を多用しなければならないが、大きく作ると箱構造の断面積が取れるので捩れにくくなったり、衝突のときの「クラッシャブルゾーン」、つまり潰れて衝撃を吸収する空間が大きく取れるので、高価な材料や特殊な設計、溶接技術(これが結構肝心な要素)を使う必要がなくなるので、工場の生産コストまで考えると、かなりのコストダウンを図ることが可能になるはずなのだ。

また操縦性能の面でも、幅、つまりトレットを広げることが出来れば、横安定性、特に横の「ロール剛性」を単純に上げることが出来るので、ばねレートの低い、やわらかいサススプリングが使え、ダンパーの減衰力も下げられるので、乗り心地もよくなり、足回りをやわらかく出来れば、それだけ取り付け面の強度を上げなくともよくなるので、薄い鋼板の仕様や、溶接点の減少など、これまた軽量化とコストダウンに貢献できるのだ。

レガシィを見ると、忠実にその文法に従って欧米での商品性とコストダウンを図った形跡が読み取れてしまうので、「レガシィ、富士重工よおまえもか」という気持ちが湧き上がってしまうのだ。

つまり、5ナンバーや、2000ccの縛りを解いたのは、我々ユーザーの利益ではなく、ひたすらメーカーの「商売上の都合」であるという点が大型化に対する僕の拒否反応の根拠なのだ。

まあ、レガシィ、フロント搭載の水平対抗エンジンの車に関しては、トレットの拡大は「固有の」メリットがある
ご存知のように水平対抗エンジンは幅が広い。
よって、横方向の寸法的制約が多く、たとえば5ナンバーサイズの全幅1700mm以内だと、フロントタイヤのホイールハウスの寸法が足らず。ハンドルの切れ角を大きく取れないというデメリットがあった。
また、エンジンも、現在のように低中速回転でトルクを出して、燃費を向上させようということをしようとしても、エンジンルームの幅の制約で、エンジンシリンダー内のピストンのストローク量を増やすことが物理的に難しくなり、どうしても本来高回転型の「ショートストローク」エンジンになりざるを得なかったので、幅を増やせば、ロングストローク型エンジンを搭載しやすい。

またこれは僕の推定なのだが、今回の売りのひとつの、エンジンを囲うように配置された「クレードル型サブフレーム」は、エンジン内の幅を広げることで実現できた構造で、そのメリットは、NVH(ノイズ・バイブレーション・ハーシュネス)の向上を図る場合、どうしてもフロントサスペンションの取り付けを出来る限りサブフレーム側に移したいが、従来の縦に積み重ねるサブフレーム構造だと、どうしてもサブフレームの厚みが増えてしまい、エンジンの搭載位置が高くなってしまい、低重心が売りの水平対抗エンジンのメリットが低下してしまうので、採用されたのだと思っている。
また、エンジンのマウントを、クレードルの横方向に適切に配置すれば、シンメトリーAWDシステムの弱点のひとつであった、ドライブトレーンの剛性不足による、振動と操縦性への影響を緩和できるのでは?とも推察している。

まあ、そういった意味では、最近の安く作ることしか頭に無く、如何なるエンジニアリング的な挑戦を排除して、電子制御でごまかそうとしている他の国産メーカーに比べれば、技術的にはるかにまじめに取り組んでフルモデルチェンジがなされたともいえなくはないのだ

だがここまでくどくど書いている割に、一向にこの車に興味がわいてこないのは、何故なのか?。
それは「購入対象にならないという一点に尽きるのかもしれない
Zの場合、確かに購入対象にはならないかも知れないが「憧れ」を演出する「スポーツカー」としての「華」がある。

だがレガシィの場合、値段とサイズの問題で、購入対象には絶対になりえず、さりとて、「グランドツアラー」として、アウディに真っ向から立ち向かえるほどの技術的取り組みも無い。
そして「ワゴン」や「アウトバック」などは、SUVとしての取り立てて特出するような技術の採用も特色も無い。

買えないし、憧れないし、驚かないし、賞賛も出来ない・・・・・・・。
これでは興味を持とうにも、持てる要素がないのだ。

その上、「乗ってみれば良さがわかりますよ」という、ここ20年ほど聞かされた呆れるような陳腐なセールストークを聞いたところで>、「乗ってみなければ良さもわからない車や、そんな車しか出せないメーカーが生き残れるほど世の中は甘くないよ」としか返答できないのだ。 これは、ホンダのアコードなんかにもまったく同じことが言えるのだが。 レガシィのかかわらず多くの車に言えることなのだが、単に豊かさ、豪華さ、絶対性能、燃費や安全性能だけでなく、今後のモビリティを真剣に考えた場合、本当に過去の価値観の延長線上で、漫然と資源を大量に使って車を量産して世界中にばら撒くことが正しいことなのか、それを真剣に考えて、「新しい自動車の価値観」を、マーケットに問いかけるような車が無いことに、多いなる危機感を感じるのだ。 これでは>「自動車産業」は、「鉄鋼」や「造船」などと同じく、全盛期の異物として衰退していくのが目に見えてしまわないだろうか。 プリウスやインサイトごときの100年前の潜水艦程度のハイブリット技術をして「未来志向」を語るなどは片腹痛いのだが、もっと新しい価値観を提案できない物だろうか。 たとえばレガシィであれば、築き上げてきたブランドが、「グランドツーリング性能を誇る、居住性と積載性能に優れた本物志向の自動車」strong>という観点で、水平対抗エンジンに強いこだわりをもつのであれば、エンジンレイアウトやパッケージング、ドライブとレーンの全面見直しを図り、「未来志向の最適の技術」をもってして、「今後20年は陳腐化しない」フラッグシップを作り上げるべきではなかったのか!。 無論現在の経済状況や、「トヨタの縛り」の中では絶対に不可能だと認識した上であえて言っているのだが。 RRのレイアウトに固執して、最新技術で最高のスポーツカーを出しているポルシェなどを比較に出して、基本的にスバル1000からレイアウトの変わらないレガシィをして、それがブランドだと嘯く評論かもいるが、僕はそんなヨタ話を相手にしたくない。 以前もブログで書いたが、引き継がれる伝統やブランドは、見かけや形式の問題ではなく、「精神(スピリット)」strong>であると今も確信している。 先のレガシイィの持っているブランドを、我々ユーザーに本当に最適な技術と製品を提供しようと考えた場合、果たして新型レガシィがこの姿で登場したことが、本当に>「スバルの自動車作りの精神」という、他に替えがたい貴重な「ブランド」を継承しているのか否かを、考えてみてもいいのではないだろうか。 これを青臭い精神論と一蹴するか、次世代に生き残るヒントと考えるかは受手の自由だが、従来型のビジネスモデルにしがみついていては、次世代どころか今年末にも路頭に迷いかねないというのが、我々のみに迫っている「現実」だと僕は考えている。 で、もしレガシィが僕の購入候補になるのだとしたら、現行型ではなく、先代の、古臭い4ATでも構わないから、アウトバックの2.5の方が魅力を感じるなぁ、ということになってしまうし、少なくとも国内マーケットは、そういう答えを出してしまう可能性が大きいのではないだろうか。
タグ:レガシィ
nice!(1)  コメント(3)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

唖然、呆然、詐欺同然!。プリウス1ヶ月で18万台受注の疑惑の裏は [車]

幼少の頃から自動車マニアで、およそ40年近く自動車の情報に触れてきていたが、高度成長期やバブル期で、「世間の話題を独占!」的に、熱狂的にマーケットに受け入れられた車種でさえ、1ヶ月で18万台などという、途方もない受注数を聞いたことがない。

ではプリウスのこの驚異的な受注数は何なのだろう。

答えは簡単でトヨタの日本中の星の数あるディーラーや、関連企業、下請けなどに、「割り当て」したからだと推測すれば納得がいく。

ひとつは、プリウスは熱狂的にユーザーに受け入れられていますという世論の扇動をする為であり、もうひとつは、工場や関連企業も含めた当座の「業務量」を強引に確保する為だと考えられる。

ここで、たとえ強引であろうとも、方法がエゲツナイと揶揄されようとも、エコカーの販売の主導権をなんとしても確保しなければ、企業の存続さえ危ういという「怯え」に近い危機感が見とれるのだ。

でなければ、「乾いた雑巾から搾り取る」とまで言われるほど収益に固執するトヨタが、当初の販売予定金額(235万円程度といわれていた)から、30万も値段を下げて、また、旧型を189万円で投売りしてまで、ホンダのインサイトつぶしを執拗に行う道理がない。

そもそも、新型プリウスという車自体、日本中のユーザーが群がって買い求めるような魅力のある商品には思えない。

確かに燃費はいいのかもしれない。
排気量も増えて走りも力強くなり、装備も充実している。

だが、僕がこのブログで、他のメーカーの多くの車を寸評しているのと同じで、「これが未来につながる、新世代の自動車ですよ」というパッションが微塵もかんじられない。

あくまで従来技術の、従来の価値観の延長線上で、「旧型と比べるとよくなっているでしょう」という範疇から一歩も抜け出ていないとしか言いようがない。

トヨタには、初代に画期的な車を予算をふんだんに投入して(トヨタといては)市場に投入し、確固たるポジションを築き上げたら、後はそのイメージを利用して徹底的にコストダウンした車で3世代は食いつぶすという考え方があるようだ。

ソアラしかり、エスティマしかり、レクサスLS(セルシオ)しかり、おそらくビッツもそうなるだろう。

となると、画期的なハイブリットカーとして華々しく登場した初代プリウスから、「大きく豪華」になっただけの先代と、今回の3代目プリウスは、穀潰しの三代目ということになるのだろうか。

これで稼いだお金で、今度は「電気自動車主体で、ガソリンエンジンで補助する」タイプのハイブリットカーとしてのプリウスを4年後に拝めるのかもしれない。
nice!(1)  コメント(6)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

矛盾だらけの「エコカー減税」は誰のもの?呆れた大型ミニバンも「エコカー」! [車]

TVのCMで、僕の大嫌いなトヨタの「ベルファイヤ」のCMをやっていて、苦々しく見ていたら、なんと環境破壊の権化のような、デカイ図体のガソリン垂れ流し車が「エコカー減税」の対象車だと宣伝していて驚いた。

この車の何処が「エコ」なのかなんとしても理解に苦しむが、そもそも「エコカー減税」自体、胡散臭い代物であると思っていたので、ますます疑問が増大した。

まったく興味が無かったので内容が良くわからなかったが、要するにガソリン車に関して言えば、排気ガス規制と、これまたインチキくさい燃費規制をクリアしていればOKなのだそうだ。

だから大きい車でも、その重量のクラスの基準燃費をクリアしていれば良く、いくら大きくとも関係が無い。

ついでに、エコカーの対象者を見てみると、これが面白いほどそのメーカーの「売れ筋商品」のオンパレードとなっている。

そもそも自動車の燃費などは、形式認証を国土交通省で認可する審査のときに、如何様にでも「操作」出来る類のものなのだと思っている。

実際ユーザーが乗ってみると、カタログに有る燃費などというものが、如何にペテンであるということは、皆さんご承知の通りだと思う。

排ガス規制に関しても、かなりの「抜け道」があることは実は「周知の事実」であり、おそらく大型ミニバンの大排気量者をアクセルガバ踏みで爆走している車の排ガスは「びっくり」するほど汚いはずだ。

してみれば、エコカー減税などというものは、環境を隠れ蓑にした、体裁の良い「販売促進」を官民がグルになって行っているとしか言いようが無い

正常な神経と、まともな知識を持った方なら、燃費の良い小さい車を乗り換えないのと、燃費の悪い大型ミニバンなどでいい気になって飛ばして歩いて、頻繁に取り替えるのと、どちらが環境に優しいか一目瞭然だろう。

それが本当に環境に優しくしようと、燃費の良い古い車を長年大切に使った人が余計に税金を納め、自分の「虚栄心」を満たすため、金に飽かせて大型ミニバンを買いあさる輩が減税の恩恵に浸れるというのは、どう考えても間違っているし不公平だ

日本という国の企業や国家が、目先の私利私欲のために、環境問題に真剣に取り組もうという気が無いことは明らかだが、それ以前にユーザーや国民の意識の変革が伴っていないことの方が深刻ではないだろうか。

すでに問答無用で、経済観や生活に関する基本概念の転換が求められているのに、何時までも「虚構の栄華」に浸っているようでは、次世代は言うまでも無く、自分たち自身がとんでもないことになるのかもしれないという、
当たり前の「想像力」を、一人でも多くの人たちに持ってほしい。

nice!(1)  コメント(3)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

山菜漁りで他人の迷惑顧みず!、危険な山岳道路での路上駐車 [車]

雨が続いてうっとおしい!
週末の自転車乗りを、楽しみに日常を送っている僕にとっては、残念どころか不満が鬱積して爆発しそうになる。

しょうがないので、ガソリン代をケチって封印していた長距離ドライブに出かけた。
山間部のワインディングを、軽快に疾走していると、イライラも収まって爽快な気分になる。
もちろん他人の迷惑にならない範囲だが。

本来なら抜けるような青空でのドライブの方が爽快なのだが、単純に走ることを楽しむだけなら、今日のように天候不順の方が好ましい事がある。

それは、都心部から訪れて、所構わず路上駐車している、迷惑をはるかに通り越して、大変危険な車がほとんどいなくなるからだ。

よく観察すると、都心部の他県ナンバーで、結構高額な車、しかも年配者が多いことに気が付く。
あるものは絶景が見られる場所で、あるものは山菜を取るため、如何なる所にも平気で車を止めてくれる。
おそらく運転者は、自分が行った行為がどれだけ危険で、他人をも生命の危機に巻き込んでいるという想像力は皆無であろう。

事実、最近おそらく山岳部の国道に車を止めておいて、そこにトラックがぶつかって、跳ね飛ばされて鬼籍に入られた老夫婦の事故が報道されていた。

確かに前方不注意でぶつけた方のトラックが「加害者」として裁かれるのだが、「そんなところに」車を止めていなければこんな事故はおきなかったはずだ。

これがカーブが続く九十九折れの山岳道路だと、カーブの先が見えない(ウィンドィウコーナー)所など、カーブを抜けたとたん車が堂々と駐車していて冷や汗をかいた事など、一度や二度ではない。

世の中には、「自動車」というものを、「ドアtoドア」の魔法の絨毯と勘違いしている人が多すぎやしまいか?。
ショッピングモールやスーパーの駐車場なんかも、何が何でも入り口の近くに停めなければ気がすまない人はおおく、中には堂々と入り口の前に「不法駐車」してシレッとしている馬鹿者も多い。

これは、身障者用の駐車場に、平気で駐車してしまう連中も同じ事で、あくまで健常者での話だが、たかが100mくらい歩いたところで知れたもので、反対にそんな距離も歩けない、歩く気も無いというのは、横着を通り越して「不埒物」と断言したい。

山岳道路に限らず「不法路上駐車」に、如何なる正当な理由もあるはずが無く、他人に迷惑をかける、あまつさえ生命の危険を与えるというのなら、問答無用で排除するべきではないだろうか。

自動車の利便性を教授する「権利」を振りかざすのなら、その事で「公序良俗」に反さないように努力する「義務」が生じるのは当然で、義務の履行なき権利の主張は認められるものではない。

先に、結構裕福なお年寄りが、迷惑な路上駐車をしていることが多いと言ったが、こんな「当たり前」のことも判らない様では、あまり有意義なお年の召され方をしなかったのでは?とも勘ぐりたくもなる。

「人の振り見て我が振り直せ」とはよく言ったもので、僕は若年者に後ろ指を刺されないような「筋の通った」年寄りになりたいですな。

「うるさい爺だ!」と、煙たがれるのは必至だが。






nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

いつの時代もいる、「人の弱みで金儲け」する奴 [雑感]

兵庫、大阪、京都と関西圏で広がる新型インフルエンザだが、この機の乗じて銭儲けに走る輩が絶対現れるだろうと思っていたが、「案の定」出てきた。

マスクを大量に買い込み、路上でマージンを載せて売り歩いている奴がいるらしく、何と「会社の指示」でやっているらしい。
まあ、TV局お得意の「捏造」でなければの話だが(笑)。

しかしなんともあさましい限りだ。ホントにいるんだから、あきれて熱が出そうになった。

まあ、さすがは「関西商人」というべきなのか、そもそも日本人というのはこの程度の人種なのか。
この手の話は、実は昔から珍しい話ではない。

若い人はまったく知らないかもしれないが、明治時代の大昔、日本はロシア(帝政ロシア)と戦争をしていた。
事の良し悪しや真実は置いておくと、日本人の立場からすれば、世界の超大国であったロシアに侵略を受けたと一般的には認識されていた。
事実、歴史的に日本は常にロシア(ソビエト連邦も含む)の脅威を認識しており、反動で無謀な大陸進出の、心理的な原因のひとつともされている。

さて、そのロシアの軍艦が攻めてくる(バルチック艦隊)事が判明し、国内は大騒ぎとなった。
で、いつ襲ってくるのか見張るのに、海岸の見晴らしの良いところに、材木で高い「やぐら」を組んで、監視しようという話になった。

当時はレーダーなんてものは当然無く、飛行機も無かったから(軍用観測気球はあった)高いところから見張るしか手段が無いわけで、当然その事業には国民の安全と国家の命運がかかっているし、多くの国民も理解していたので、当然喜んで協力してくれる「はず」であった。

ところが、一部の材木問屋や商人は、軍が材木を大量に買い必要なことを知っていながら、それを利用して、事前に大量に買占めを行い、価格を不当に吊り上げて、大もうけをしたということだ。

その商人にとって見れば、金儲けをすることの方が重要で、国家の危機を利用することに何の躊躇も無く、良心の呵責も無かったのであろう。

現代でもこういう人間がいて、「金儲け優先」で企業を起こし、商売をしているのだから、最近流行の「食品偽装」などは、当然のようにおきて当たり前とも言えるだろう。

しかしその行為が、より大勢の人たちや、地球環境も含めた「公共の福祉」にそぐわないのであれば、そういった企業や個人はもっと糾弾されてしかるべきではないだろうか。

そういえば北朝鮮の核実験で、放射能に対する過大な不安が社会で増大すると、「この薬は放射能に有効です」みたいな話が広まると(事実そういった類の薬剤は存在する)、それを買い占めて不当に高く売って設けようとする連中が出るんだろうなと思いつき、おそらくそうなるだろうと思ったらますます憂鬱になってしまった。

nice!(1)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

新型プリウスに出演中の、スーパーマンの堕落 [車]

最近までやっていた旧型プリウスのCMも、あの「手塚治」大先生のキャラが総出演していて、違和感を感じていた。

本当に先生がご存命だったら、「ハイブリットだから環境に優しい」的なペテンのためにアトムを出演させただろうかと思うと複雑な心境だった。

で、今度は天下のヒーロー「スーパーマン」ときた。
かつていろいろなメディアでスーパーマンのパロディがあったが、胸の「S」のマークはは無かったはずだ。
「すっぱまん」なんていうのもあったな。

じつはこの版権を持っている映画社は、非常にうるさいので有名で、ちょっとでも出ようものなら、即座に訴訟を起こすらしい。

だから、プリウスのCMを見て驚いた。
一応本家であることは間違いない。

しかし、このスーパーマンは、「スーパーヒーロー」が行ってはいけない、世界共通の不文律を犯している。
それはスーパーヒーローたる所以の能力を、自分のためには使ってはいけないということだ。

このCMでは、地球人での「クラーク ケント」であるときに、勤めている新聞社「デイリープラネット」の編集長に、スクープを取って来いとはっぱをかけられて、スーパーマンに変身して、プリウスのエンジンルームの写真を「透視」により撮っている。
自分の欲目のために、スーパーマンの特殊能力を使うのも情けないが、プリウスのエンジンルームをトクダネ扱いする編集長も情けない。

しかし、これが地球(人類を含む地球環境すべて)を守る、正義のヒーローの行うことだろうか?

このCMは国内専用なのだろうか?
アメリカ人が自国の自慢のスーパーヒーローが、日本の自動車会社にコケにされたようなCMを見て、「プリウスを買おう」と思ってくれるほど、アメリカ人は能天気な国民なのだろうか?。

無論このような「ヒネクレタ」見方をする人は圧倒的に少数派で、僕自身も「正論」とは言わない。

だが、新型プリウスには、車自体もそうなのだが、販売方法も含めて「形振りかまわず」という印象を受ける。
これはトヨタの「驕り」なのか?、それとも「断末魔」なのか?。
どちらにしろ、今のトヨタは、ここ数年来の「心無き飽くなき拡大」路線の成れの果てに行き着いた、「危うさ」に満ちていることは間違いない。



nice!(1)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

働きすぎで消えたミツバチは、我々労働者の明日の姿? [雑感]

昨年、世界的にミツバチが原因不明の失踪を遂げて話題になっている話をしたが、とうとうその余波が日本にも来たというべきか。
農業の受粉用に売買されているミツバチが極端に不足しているという。

ハウス栽培などで、温度管理をして一年中いろいろな野菜や果物を食べられるのが当たり前のようになっていたが、それをミツバチたちも支えていたわけだ。

このミツバチの失踪は諸説紛々あるのだが、最近面白い学説を聞いた。

何でも、単一のさくもつだけを過剰に受粉させられるので、強いストレスが加わり、体が弱り死んでしまうのではないかという説だ。

この話、「働き蜂」と称される日本のサラリーマンには身につまされる話ではないか。
政官財の経済政策に乗せられて、無駄な消費をするために、それこそ寝る暇も無く働かされて、絞りつくされて、集めた「賃金」も必要の無い消費や税金に搾り取られ、その結果はどうだったのだろうか?。

あるものは強いストレスで「心」を病んでしまい、あるものは自らの命を絶ってしまっている。
そして、都合が悪くなれば「リストラ」という名の切捨てで路頭に迷う。

それで企業が、国家がたとえ生き残れたとしても、働く人たちが「ミツバチ」のように弱った挙句、この世から消え去ってしまったら、いったい誰が社会を支えていくのだろうか?。

僕は、まじめに働い他挙句、「負け組み」として見下され、排除された跡に、「勝ち組」と称する一握りの人たちだけが闊歩する世の中が、どのようなものになるのか見てみたいものである。
さぞや「この世のパラダイス」「桃源郷」のようなものなのだろうか。

その代わり、使い切れない資産に囲まれながら、食べるものも無く、インフラも途絶し、身の安全も図れないような生活になることを、消えてしまったミツバチたちの代わりに、自分で蜜を探さなければならないことは、覚悟してもらいたいと持っている。
nice!(1)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

明らかに危険!高出力の「不法電動自転車」を排除せよ! [雑感]

この季節は自転車が本当に楽しい。

とはいえ、僕は春夏秋冬ほぼ毎日自転車で通勤していて、通勤自体が楽しいわけではないが、気候が良いには越したことはなく、快適なのはうれしい。

このご時世のせいか、自転車通勤が相当増えたが、最近なにやら怪しい自転車も増えている。
僕はそんなに急いでいるわけではないが、毎日乗っているおかげで、それなりの速度を一定時間出せる。
まあ、原付バイクの法廷速度程度といえばお分かりいただけるだろうか。

遅いほうではないので、やる気まんまんのロードレーサーを乗って爆走している連中以外にはそう滅多には抜かされることは無いのだが、最近、「普通のおじさん」が息も切らさず相当な速度で抜いていく事が多くなった。
どう見ても35km/hは出ている。

それがそこら辺をのんびり散歩する程度の雰囲気で余裕で漕いでいるので、おかしいなとよく見てみたら、電動アシスト自転車だった。

だが待てよ、電動アシスト自転車は、確かアシストする速度が24km/hまでと決められていたのではなかったのではなかろうか。

確かにそれ以上出せるだろうが、それはあくまで人間の脚力であり、涼しい顔をして走れるわけが無い。

僕が見た自転車は、MTB風の電動アシスト自転車で、一見しても見覚えのあるメーカーのロゴや商品名が判別でき無かった。

不思議に思い調べたら、あるはあるは!。

ネット上のことだが、制限速度なぞ存在しない、高出力アシストの、いわば「不正電動アシスト自転車」が、かなりの種類売られていたのだ。

僕が見たものは、電動ラジコンなどの玩具を販売していたサイトだが、「公道は走れません」という但し書きで「玩具」扱いで電動自転車が売られいた。
とはいえ額面通り公道で乗らない目的で買うはずが無く、明らかに「法律のすり抜け」「言い逃れ」に過ぎない。

単純に技術的には高出力で、速度の出せる電動自転車を作ることは不可能ではない。
それどころか、それこそ「電池とモーター」程度の玩具に毛が生えた程度の技術で、お手軽に自転車を基にした「電動バイク」作ることは造作も無いことで、既存バイクメーカーのようなノウハウや生産設備を必要としないので「手軽」に生産し、販売網など無くともネットで販売できるのだ。

法律的に言うと、24km/h以上のアシスト力がある自転車は、もはや「原動機つき自転車」であり、公道を走行するためには、決められた安全保安部品、たとえば燈火類などを装備して、自治体に登録し、原付免許が必要となる。
そういった「電動バイク」が法規通りちゃんと作られ、免許所持者がバイクとして利用しているのなら問題は無い

ところが、それだけの動力性能を持ちながら、乗っている本人の認識は自転車、下手をすると歩行者の延長気分の「ママちゃり」感覚であり、ヘルメットなど被らないのは当然で、右側歩道の逆走なども彼らからすれば「当たり前」となる。

当然そういう連中が公道における「弱者優先」などというような、当たり前の事を考えるはずも無く、恐ろしい速度で歩行者や自転車を蹴散らして走行しているのだ。

また困ったことに、元があまり高級な自転車をベースとしていないので、タイヤやブレーキが貧弱であり、ちょっとでも路面状態が悪ければタイヤが滑って転倒したり、とまりきれないことは火を見るよりも明らかなのだ。

現実こういった「不法電動自転車」での事故やトラブルは増加していて、大阪県警などは、取り締まる方針であると伝えられている。

このあたり、「縦割り行政」の弊害であり、大阪県警だけではなく、本来全国できっちり不法電動自転車を取り締まるべきではないだろうか。

また、走行区分など長年交通手段として法的に「グレーゾーン」でごまかされていた自転車の明確な一付けをきちんと行うべきで、一刻の猶予も無いのではないだろうか。

個人的に言わさせていただけば、足の弱ったお年寄りや障害者、坂の多い地域に住まれる主婦などが生活の道具として「電動アシストつき」自転車に乗ることは文句をつけるところは無いが、ちゃんと自分の足で歩ける健常者で、未だ現役として就業している年齢のかたがたは、せめて自転車くらい「自分の足で漕いだら」と思う。

でなければちゃんとしたバイクに乗ればいいだけなのであって、自転車の簡便さとお手軽さ、バイクの利便性など「美味しいとこ取り」をして、道交法も守らず公序良俗も眼中に無いような輩は「ただの迷惑」な存在だ。

まあこう言ったら面が自転車に乗ったら乗ったで、マナー無視でえらい迷惑な連中になることは目に見えているので、困ったものだ。



nice!(1)  コメント(8)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。